混んだ電車のドア付近。本当はもう少し奥に行けるけれど、降りる駅のことを考えると、つい入口の近くにとどまりたくなる。
その気持ち、とてもよく分かります。奥に入ると出にくい。あの圧迫感の中を「すみません、降ります」とかき分けるのは、それなりに気力が要ります。
だから、これは「奥まで詰めましょう」という話ではありません。あと一歩だけ、という話です。
たった一歩。それでも車内の景色は、少しだけ変わります。
一歩の向こう側で起きていること
ホームに目を向けてみます。閉まりかけたドアの前に、駆け込んできた人がいる。車内に隙間が見えなければ、その人は乗るのを諦めます。
でも、あなたが一歩詰めていたら。
- その人は次の電車を待たずに済んだかもしれない
- 朝の会議に間に合ったかもしれない
- 「今日はついてる」と思えたかもしれない
あなたはそれを知ることができません。乗れた人も、自分が乗れた理由があなたの一歩だったとは気づきません。それでも、その「間に合った」は確かに存在します。
一歩詰めることは、見えない誰かの「よかった」を、先回りして作っておくこと。
席を譲るときのような、目が合う緊張はありません。声をかける必要も、断られる心配もありません。体を一歩動かすだけの、いちばん静かな親切です。
詰めた自分のほうが、少し楽になる
意外なことに、一歩詰めると自分の居心地も変わることがあります。
ドア付近は、駅に着くたびに乗り降りの流れに揉まれる場所です。少し奥に入ると、その流れから外れて、かえって落ち着けたりします。
それから、もうひとつ。「自分は今、誰かが乗れる隙間を作った」という感覚は、ささやかですが確かに気分を上向かせます。親切は誰かのための行為のはずなのに、先にあたたかくなるのは自分の側。通勤の憂鬱な時間の中に、小さな「できた」がひとつ増えるのです。
次の駅で降りる日は、そのままでいい
もちろん、次の駅で降りる日はドアの近くにいていいのです。それは合理的な立ち位置であって、不親切ではありません。
体調が悪くて、手すりのそばを離れたくない日もあるでしょう。大きな荷物を抱えて、動くに動けない日もあるでしょう。そういう日は、その場にいて大丈夫です。詰められない日があっていいのです。
毎回でなくていい。気が向いた日の一歩で、十分。
明日の朝、もし少し余裕があったら。発車のベルが鳴る前に、半歩でも奥へ。あなたの背中の後ろに生まれた隙間に、誰かの一日が滑り込んでくるかもしれません。