夜、ベッドの中でスマホをスクロールしている。きれいな夕焼けの写真、丁寧に作られたお弁当、誰かが何時間もかけて書いたらしい長い文章。いいな、と思うたびに、親指がハートを押していく。
それ自体、ちゃんとした気持ちの表明です。いいねは、押さないよりずっといい。タップひとつにも、「見たよ」「届いたよ」という合図が確かに乗っています。
ただ、たまにでいいので、そのうちのひとつを言葉にしてみる、という小さな実験があります。「この写真、好きです」。それだけでいい。気の利いたことを書く必要は、まったくありません。
コメント欄というと、何か立派なことを書く場所のように感じて、つい閉じたままにしてしまう。でも本当は、一行の置き手紙くらいの気軽さで使っていい場所なのだと思います。
数字と、言葉のあいだ
作り手の側から見ると、いいねは「数」として届きます。100でも101でも、画面の上では数字がひとつ増えるだけ。
でも、コメントは違います。たった一行でも、そこには「誰かがわざわざ指を動かして、自分に向けて言葉を打った」という事実が乗っています。受け取る温度が、まるで違うのです。
書くことは、ほんとうに短くて構いません。
- 「この色、好きです」
- 「保存しました。作ってみます」
- 「ここの一文に救われました」
感想として立派かどうかは、気にしなくて大丈夫。むしろ短くて素朴な一言ほど、本心に聞こえるものです。長い批評よりも、「好きです」の四文字のほうが、作り手の明日の制作を支えることは珍しくありません。
宛先は、有名な人でなくてもいいのです。むしろ、いいねが数個しかつかない小さなアカウントほど、一行のコメントは大きく響きます。フォロワー数十人の人の、手作りの何か。そこに置かれたあなたの一行は、たぶん何日も覚えられています。
数字はカウントされる。言葉は、覚えられる。
先に変わるのは、自分のタイムライン
不思議なことに、一行のコメントを書くと、自分の側の景色が少し変わります。
「いいと思ったものの、どこがいいんだろう」と一瞬だけ考える。その一瞬で、流れていくだけだった画面が、ちゃんと「見るもの」になります。同じスクロールの時間が、少しだけ受け身でなくなる。ネットの中で何かを「消費した」のではなく、小さく「参加した」感覚が残ります。
人との関わりが薄い時期には、これが案外、効きます。誰とも話さなかった日でも、「好きです」と一行打った日は、誰かと言葉を交わした日として数えていい。短くても、それは確かに会話の片割れだからです。
返事が来なくても、成立する親切です。あなたの一行は送った瞬間に仕事を終えていて、あとは作り手の通知欄で、静かに灯りをつけて待っています。
言葉をひとつ置いてきた日は、画面を閉じたあとの気分が少し違う。
全部に書かなくていい
もちろん、毎回やることではありません。何も書きたくない日、ハートを押す元気すらない日があって、当たり前です。そういう日は、ただ眺めるだけでいい。眺めることだって、誰かの作ったものと過ごす、ひとつの時間です。
ただ、今夜のスクロールの中で、もし「これ、ほんとに好きだな」と思うものに出会ったら。ハートのとなりにある吹き出しを、一回だけ開いてみる。
一行で十分です。その一行は、画面の向こうの誰かにとって、今日いちばんの一行かもしれません。